診療所で採用したワクチンについて②

◎ 百日咳ワクチン

・最近、百日咳は、一定の流行があり、幼若乳児の重症例も報告されています。こうした事態を考慮し、若いお母さんやお父さんに、三種混合ワクチン(DPT ジフテリア、百日咳、破傷風)を開始することにしました。小児に使用する、三種混合ワクチン(現在は、五種混合)は、成人には適応がないので、トリビック®というワクチンを使用します。
・接種対象
子どもが、生後2ヶ月以内で、3種混合ワクチンを接種していない、父母の方。または、これから出産を予定される、父母。妊婦は、妊娠早期を除き、基本的に接種可能です。また、祖父母、兄弟で他の家族でご希望の方はご相談ください。
・接種方法
三種混合ワクチンが済んでいる方は、「追加接種」として1回、上腕に皮下注射します。接種していない、ないし不明の方はご相談ください。注射後の注意は、他のワクチンとほぼ同様です。
・費用
組合員は、1回 2000円、非組合員は、1回 2500円です。
・予約時間など
百日咳は、月齢が少ないほど、病気が重くなります。また、感染力も強く、家族・兄姉同胞間でもよく伝染します。それを家族でワクチンで予防することを、強くおすすめします。毎土曜日午後2時から4時まで、ワクチン外来をしています。予約や相談される場合は、西成民主診療所受付か、お電話(06-6651-0501)ください。

診療所で採用したワクチンについて①

◎ 帯状疱疹ワクチン


・帯状疱疹は、主に小児期にかかった、水痘(みずぼうそう)ウィルスが、長年にわたって体の奥底に潜み、高齢期になると体の抵抗力が低下すると、皮膚の神経にそって水疱、痛みなどをもって発症します。帯状疱疹そのものは、1~2週間くらいで治りますが、一定の割合で、痛みなどが残り、その後遺症に苦しむ場合があります。
・帯状疱疹の予防として、小児の水痘ワクチンが使用されていましたが、2025年4月から、より予防効果の高いワクチンが作られ、国・自治体から一定の助成制度が始まりました。当診療所では、このシングレックス®を採用しています。小児の場合は、従来のワクチンを引き続き使用しています。
・接種対象年齢は、2025年度(2025年4月から2026年3月)までに65歳を迎える方です。また、2025年度から2029年度までの5年間の経過措置として、その年度内に70、75、80、85、90、95、100歳となる方も対象となります。
詳しくは、厚労省のホームページを御覧ください。
・接種方法
2ヶ月の間隔をあけて、2回、上腕に筋肉注射します。注射後の注意は、他のワクチンとほぼ同様です。
・費用
組合員、非組合員とも、1回、11000円です。生活保護と所得税非課税世帯の方は、助成があり無料です。
・予約時間など
帯状疱疹は、高齢者の約三分の一が罹患すると言われています。それをワクチンで予防することを、強くおすすめします。毎土曜日午後2時から4時まで、ワクチン外来をしています。その他の時間をご希望の方はご相談ください。診療所までの送迎も利用可能です。予約や相談される場合は、西成民主診療所受付か、お電話(06-6651-0501)ください。

診療案内

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大阪市西成区松2-1-7

電話:06-6659-1010
メール:takenaka.a@osaka-kizugawa.coop

診療時間は、以下の通りです。
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内科
 
9時~12時
18時~20時 × × ×
小児科
 
9時~12時 × ×
14時~16時 × × × × ×
18時~20時 × × × ×
整形外科
 
9時~12時 × × × × × ×
14時~16時 × × × × × 〇(※)
18時~20時 × × × × ×
※第1・2・4土曜日のみ診療

 

☆無料でご自宅から診療所まで往復送迎いたします。事前にお申し付けください。
☆各種健康診断を行っております。健診の種類、内容、ご予約など健診のご不明点がございましたらお気軽にお問い合わせください。
☆お支払いが困難な方のための無料低額診療事業を行っております。詳しくはお問い合わせください。
☆その他、生活上のお悩みなど何でもご相談ください。

 

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西成民主診療所デイケア室 〒557-0034 大阪市西成区松2-1-7 2F

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照る日曇る日(001)

 がもう健さんの「西成百景」から続く「郷土史シリーズ」も手持ちの原稿はすべてアップしました。また、続編があれば、投稿予定ですが、ひとまずは終了です。長年のご愛読に感謝するとともに、2025年6月号から、連載をはじめました「照る日曇る日シリーズ」を順次掲載してゆきますので、よろしくお願いします。

 今まで、溜めた雑文の中や、新しく書き起こしたものやら、「照る日曇る日」と名付け、老小児科医の繰り言を連載することにした。しばし、お付き合いをお願いする。
 医者のシンボルと言えば、首にかけた聴診器が真っ先にあげるだろう。以前、ある雑誌に、その聴診器にまつわる、当方の思いを書いたが、今回は、その補足である。
 一昨年まで、複数の保育園児の健診を担当していたが、昨年で、お役御免となった。その時の、エピソードから…
 年長児(5-6才クラス)は、健診でのさいごの機会となる。そこで、なにかちょっとした企画をすることにしていた。やや「セクハラ」気味だが「チュー」しようか、「ハグ」しようか、と提案しても、なかなか園児の賛同が得られない。そこで、この数年来、「自分の心臓の音を聞いてみようか?」というと、診察に使っていた聴診器を自分の耳にかけたがる。子どもの手をとり、心臓の上に当ててあげる。「聞こえたかな?」「ウン、ウン」「そうだよ、自分の『心(こころ)』を聴いてるんだ。もし、将来、この中から、医師になる子が出てきたら、そういうお医者さんになるんだよ」と、そっと願ってみていた。
 健診の診察票に、保護者の質問コーナーがある。そこに「将来、医師になるためには、今何をすればいいですか?」と書かれた方がおられた。「うーーん、困った、強いて言えば、仲間と、うんと遊ぶことかな?」、こんな答えでよかったかな?
 写真は、病児保育室での「聴診実習」の様子。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2025年6月号搭載

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 三十二

◎三十二、義仲寺(芭蕉の時空を越えた情の寺)

 寺伝にはこう記されている。
 ―義仲寺は大津市馬場一丁目にあり、旧東海道に沿っている。このあたり古くは粟津ケ原といい、琵琶湖に面し景勝の地であった。朝日将軍木曽義仲公の御墓所である。
 治承四年(一一八〇年)義仲公は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永二年(一一八三年)五月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り、七月京都に入られた。翌寿永三年正月二十日、鎌倉の源瀬朝の命を受けて都に上がってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、利なくこの地で討死された。
 享年三十一歳。その後年あって、見目麗しい尼僧が、この公の御墓地のほとりに草庵を結び日々の供養ねんごろであった。里人がいぶかって問うと、「われは名も無き女性」と答えるのみであった。この尼こそ、義仲公の愛妾巴御前の後身であった。
 尼の没後、この庵は「無名庵」ととなえられ、あるいは巴寺ともいい、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれたことは、鎌倉時代後期弘安頃の文書にみられる。
 時代は移り、戦国の頃には当寺も大いに荒廃した時に、近江国守佐々木侯は『源家大将軍の御墳墓荒らるるにまかすべからず』と当山を再建し寺領を進呈―
 貞享年間(一六八四〜八年)に大修理の記録あり、松尾芭蕉がしきりに来訪し宿舎としたのはこのころである。
 元禄七年(一六九四年)十月十二日、笆焦は大坂の旅窓で逝去するが「骸は木曽塚に送るべし」との遺言によって、去来・基角・乙州・支考・丈年・素牛・正秀・木節・呑舟・次郎兵衛がしたがい、淀の河舟で迎ぶ。十月十三日、遺骸は義仲寺に着。十月十四日、子の刻に埋葬。
 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」とかって芭蕉が宿泊した時に、弟子の又玄がよんだ句がそのままになってしまった。
 次郎は受付の男性に話しかけた。
「旅の俳人芭焦が木曽寺を定宿のように利用していたのは、交通の要所にあったことと琵琶湖のさざ波に洗われる景勝の地であったこと以外に何かわけがあるのですか」
 男性からは「情でしょうね」という答えが返ってきた。
 「情とは思いやりの心といチことだが、芭蕉がなぜ五百年も前に亡くなった木曽義仲にそんな気持ちを持ったのだろう。友ちゃんはどう思う?」
 「芭蕉の句に『木曽の情雪やはえぬく春の草』というのがあるわ。義仲は朝廷の命で平家を京から追い出した。そして、今度は同じ朝廷の命で義経が義仲を討ちにくる。源氏の若武者を同士討ちさせるなど、まったく情のない話だけど…」
 友子は言葉を詰まらせたが、次郎がすぐに続けた。
 「その時に、武勇すぐれた美女で義仲に最後まで随従した巴御前を、義仲は泣いて諫めて戦列を離脱させた。その結果、巴御前は生き残り尼となって義仲の墓を守った。という話に芭蕉は感動していたのではないかと思う。芭蕉は生涯妻子に縁がなかった。後世に俳聖などと持ち上げられているが、当時は最後まで旅から旅の貧しい暮らしに変わりはなかったというのが本当だ。芭蕉は義仲と何かあい通じるものがあったのだろう」
 「いつの時代でも情のある人は忘れられないわ」と友子が微笑んだ。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 三十一

◎三十一、「法隆寺」聖徳太子は架空の人物?

 法隆寺の由来には、こう記されている。
 ―用明天皇が自らの病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されましたが、その実現をみないままに崩御されました。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇の遺願を継いで、推古十五年(六〇七年)に寺とその本尊、薬師如来を造らせたのがこの法隆寺(斑鳩寺ともよばれる)であると伝えられています。
 現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。広さ十八万七千平方メートルの境内には、飛鳥時代を始めとする各時代の粋を集めた建造物が軒を連ね、たくさんの宝物類が伝来しています。
 国宝・文化財に指定されているものだけでも約百九十件、点数にして二千三百余点に及んでいます。
 このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、千四百年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、特に一九九三年十二月には、ユネスコの世界遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めています―
 次郎と友子は、法隆寺とその近くの聖徳太子にゆかりの深い「中宮寺」「法輪寺」「法起寺」を巡り歩いてきた。
 次郎は友子に話しかける。
 「法隆寺は遠足の子供達で大盛況だが、今や世間では『聖徳太子は架空の人物だった』とか『聖徳太子は蘇我入鹿であった』などと云われているのに、どうして教えているのだろう。それが心配だ」
 友子は仰天して「なぜ変わってきたの」と興味津々だ。
 「聖徳太子が潛いた傑作といわれる仏典の解説書『三経義疏」と同じものが屮国の敦煌の莫高窟から出土した。それで聖徳不在が証明されたというわけだ」
 「日本にある方が偽物なの?」と友子が詳しく聞く。
 「中国に行った遣唐使が髙い値段で買ってきて、表紙だけ張り替えて日本製にしたのではないかと云われている。その他にも、仏教に深く帰依し日本の文化人、知識人の始祖、絶対の平和主義者としてきた人物が、物部氏を滅ぼす先頭に立って活躍するなど疑問点も多くあったのだ」
 次郎も興奮して言葉を続けた。
 法輪寺の沿革には、こう記されている。
 ―創建は飛鳥時代に遡り、聖徳太子の御子山背の大兄君が太子の病気平癒を願ってその子由義王とともに建立されたと伝えられています。しかし、聖徳太子と推古天皇の没後、有力な王族である山背の大兄王は皇位継承の政争に巻き込まれ、皇極二年(六四三年)ついに斑鳩寺で一族もろとも自害された―
 「根絶やしよね」と訝しげに友子は言った。
 「架空の聖徳太子を『日本書紀』に潜り込ませ『日本の正史』にした犯人は、以後子孫の消息偽造の手間が省けたわけだ」と次郎も目を細める。
 「一体だれが、何のために歴史の偽造をしたの?」と友子の疑問は止まらない。
 「蘇我三代、稲目・馬子・入鹿の実績を架空の人物聖徳太子の成果と偽り、その立派な一族を集団自決に追い込んだ悪者蘇我一族。これら悪者をだまし討ちにした大化元年(六四五年)夏の中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣(藤原)鎌足らの行為は正しかったからこれを『大化改新』という。歴史偽造の犯人はこの『大化改新』で得をした人物ということになる。鎌足の次子で右大臣、その後の藤原氏隆盛の基礎をつくった藤原不比等だ!」
 小さな声で説明していた次郎だが、最後は熱が入って大きな声になっていた。
 友子は驚いて顔を上げた瞬間、パッと時計が目に人った。
 「あ!お兄さんがディサービスから帰られる時間よ」
 次郎も時計を確認し、焦った様子で「白熱してしまったよ。ありがとう、帰ろう」と言い、二人は足早に帰路についた。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 三十

◎三十、「ぽっくり往生の寺」吉田(きちでん)寺

 JR法隆寺駅より西へ約一・五キロ、次郎と友子は「ぽっくり往生の寺」として有名な吉田寺にやってきた。この寺は初めての参詣だ。
 寺の案内にはこう書かれている。
 ―千古の歴史を秘めた日本上代文化発祥の地、斑鳩の里に吉田寺がある。世界文化遺産の法隆寺と万葉の古歌で有名な竜田川の中間にあり、竹藪や樹木の生い茂った森の中にひっそりとたたずんでいる。永延元年(九八七年)に恵心僧都が母の臨終に、除魔の祈願をした浄衣を着せると、母は安らかに、称名念仏のなかに往生を遂げられた一
 寺では一人一回五千円で三回以上の祈祷を推奨しており、都合で直接衣を持参できない方には郵送でも受付けているとのことだ。
 「次郎ちやんどうするの。いつも僕はぴんぴんころりが望ましいと言っていたから」と友子。
 次郎は手を前に出して、こう言った。
 「いや、大金を出してまで祈祷してもらうつもりはない。それに私は日頃からこの寺を開基したという源信の『往生要集』に疑問を持っているから」
 友子は驚いて「源信とは地獄からの救済者として地蔵の信仰を広めた人ではないの?」と次郎に聞く。
 「わが国での地蔵信仰は九世紀当時まではきわめて不振だった。ところが十世紀末になると源信の『往生要集』で、地蔵が地獄に入つて衆生を救う悲願は他の仏菩薩にすぐれていると云いだし、源信は運動の指導的役割を果たすようになっていく」
 友子は「あら」と口を開けて「源信は、根も葉もない地獄の惨状を極楽と対比して描くことによって、地蔵と共にちゃつかりと自分も押し上げたというわけね」と答えた。
 次郎は続ける。
「その結果、聖(ひじり)など多数の民間布教者が好んで行なったであろう因果応報の説法、現在苦しい生活をしているのは前世の因縁であり、さらに現世で功徳を積まなければ来世では地獄に堕ちるという、逃れることのできない宿業の恐ろしさ、来世での地獄必定の恐怖を人々の心に植えつけてしまった」
 「そこから逃れるためには少々の御祈祷ではダメだというシステムが今でも脈々と生き続けている現実は深刻ね」と頷きながら友子は答えた。
次郎は友子の目を真っ直ぐ見て、いつも以上に真剣に話し始める。
 「人間の心なんて弱いものだ。しかしだからこそ強く持たねばならない。こうしてお寺巡りをしていると、どちらを信じてよいのかと振り回されることがある。しかし、その中で、びっくりするような矛盾を見付けると、みなさんにお知らせするのが二人の役目ではないかと思うのだが、見解はいかがかな」
 次郎は友子に返事を求め、友子は少し考えてこう言った。
 「昔の人は、特に女性は物見遊山でお寺巡りをやっていた。花や緑、おいしいもの、それにウォーキング。それでいいのでは…?」
 次郎は納得したように「押しつけない、押しつけられない心構えだね」と感心した。
 吉田寺からの帰り道。友子はいつも通り、次郎に兄の介護について聞く。
 「お兄さんはその後どう?」
 次郎は暗い表情で「認知症の兄は最近ではトイレの水の流し方、テレビのつけかたも忘れだしている」と答えた。
 友子は一瞬かける言葉に悩んだが、「毎回丁寧に教えること、諦めずにね」と友子らしく励ました。
 「ありがとう、では今日はこれで」
 「またね、頑張って」

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十九

◎二十九、興福寺に「廃寺」の過去が

 今日の二人は近鉄奈良駅から約五分、興福寺に向かっている。
 興福寺は法相宗の大本山で、東大寺と並び奈良を代表する古刹である。
 六六九年、京都山科に藤原氏の始祖である藤原鎌足によって創建され、壬申の乱の後、飛鳥に移り、平城遷都(七一〇年)の際に現在の地に移建された。
 鎌足の子、藤原不比等の「国家興福」の発願から興福寺と称され、藤原氏の氏寺として一門とともに栄え、私寺でありながら官寺以上に隆盛を極めた。
 友子が次郎に話しかける。
 「興福寺といえば僧兵が思い出されるわね。比叡山延暦寺とともに、強大な軍事力を備えていたけど、その背景には貴族から多くの寄進を受け、広大な荘園を有していたことがある。ほぼ大和一国を領し、実質、大和国の支配者であったのではないの?」
 次郎は友子の疑問を聞いて、詳しく解説した。
 「僧兵たちはたびたび入洛し強訴している。藤原氏によって創建(七六八年)された春日大社も合体し、その神威をかさに、京の都に押し掛けた。これが結果的には南都焼討を招くが、東大寺や談山神社などともしばしば衝突を起こしている。興福寺に伝わる仏頭(国宝)も元は飛鳥の旧山田寺に安置していたものを強奪し、東金堂の本尊として祀られていたものである。ところが、一八六七年(慶応三年)十二月九日、将軍から天皇に政権が戻った。これからは神様が大切にされる時代だと感じた興福寺は、衆議で全ての僧が興福寺を離れ、同じ経営の春日大社の神官になることを願い出た。興福寺僧は興福寺を見捨ててしまう。興福寺を守るために西大寺と唐招提寺の僧が興福寺に人ったが、守り切れなかった。興福寺は無住の寺、廃寺となった」
 「江戸時代を通じて徳川恭府から手厚い保護を受けてきた、その経済基盤が失われ多くの寺が廃寺になったけど、興福寺がいち早く衣替えするとはね…」と友子。
 「しかもそれは過保護政策が廃止されただけで、神社も同じように領地を没収されたのだから、興福寺の廃寺化は本当にビックリだ。もっと頑張らねば」と次郎。
 「とはいえ、朝廷の権威を振りかざしがちな地域、勤皇思想が特に強い地域、平田篤胤などの神学者や国学者の力が強い地域、こうしたところでは寺がゼロになり仏像も全て壊されているわ」と友子が付け加える。
 「大きなお寺には権力で支配、強奪してきた歴史が今も残っているような気がして、何か素直に手を合わせにくいね」と次郎が渋い顔」語る。
 「興福寺等はその典型で、今や所狭しと国宝の山」
 「やはりわれわれ高齢者が心静かにお参りできるのは、西大寺くらいまでかね。あとの大寺院は『観光寺院』として割り切ればいいんだが…」と次郎が考え込むように腕を組んだ。

 今日の帰り道、次郎は思いついたように友子にこう言った。
 「認知症の人の気持ちは、鏡に映した介護者の気持ちなのだとよく言われるが、あれは正解だね」
 「実感しているのね」と友子が相槌を打つ。
 「友ちやんとの『びっくり史跡巡り』がなかったら、私はとっくに挫折しているよ」
 笑いながら「少しはお役に立てているかしら?」と友子が首を傾げた。
 「大いにです」と次郎は手を叩いた。
 今日も次郎は友子の明るさに助けられたようだ。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十七

◎二十七、泉涌寺の楊貴妃観音

 京都駅からJR奈良線に乗って一つ目の東福寺駅から歩いて約二十分、泉涌寺への参道は総門をくぐると二つに分かれる。左が御陵参道、右が正門の大門前へ通じる。
 ここは斉衡三年(八五六年)、山本左大臣緒嗣が神修上人のために開き、初めは法輪寺と称し、のち仙遊寺と改めたのがおこりとされるが、寺伝ではそれより以前に空海が建立したのを緒嗣が再興したのだという。
 ついで、建保六年(一ニー八年)宇都宮信房が月輪大師に寄進し、泉涌寺と改称した。
 月輪大師は十年余りの歳月を中国に渡り、修学に過ごして帰朝した、当時の代表的な学僧であった。弟子の堪海も大陸へ渡り、帰朝にさいしてさまざまな文物をもたらした。
 その中でふだん拝観できるのは、大門を入った左手、観音堂に安置されている木造の観音菩薩像と羅漢像とである。観音菩薩像は唐の玄宗が美貌で名の高かった皇后楊貴妃を追慕してつくらせたとの伝説があり、楊貴妃観音の名称で親しまれている。豪華な宝冠や装身具で飾られ、あでやかな彩色をほどこしたこの像は、面長な顔立ちと妖艶ともいえるような秀麗さで、こうした伝説が生まれるのも頷ける。
 また山内には、西国三十三札所第十五番目の観音寺や中世の大きな木造釈迦如来立像を本尊とする戒光寺、あるいは毎年十月中旬に行なわれる二十五菩薩お練り供養で名高い即成院がある。
 今日の次郎と友子の目的地だ。
 「泉涌寺は本堂に行き着くまでに、このような楊貴妃観音、本造釈迦如来立像では全国一高いという戒光寺、即成院本堂には阿弥陀如来像をかこむ二十五菩薩の群像などで、それぞれ圧倒的な浄土教の世界を体感できるのが他の寺院にない特徴だね」
 目を輝かせる次郎を見て、友子が「次郎ちゃん、大感激ね」と嬉しそう。
 「時間をかけて拝観することが大事だね。そうすれば極楽を体感できるよ。こんなところは他にはないよ」
 友子の言う通り、次郎は感激した様子だ。
 友子も頷いて「『地獄極楽この世にござる』と云うのだから、何もお金を払って地獄を見にいく必要はないと思う。見るなら極楽、泉涌寺前だね」と同意した。
 極楽気分の次郎はいつも以上に明るい声で「友ちゃん、今日はタクシーで京都駅まで飛ばして、一杯飲んで帰ろうか」と友子を誘った。
 少し間を置いて、次郎は「ホツトコーヒーをね」とお茶目に付け足した。
 そんな次郎に友子が「認知症のお兄さんと同居して介護している次郎ちやんは、極楽間違いなしよ」と励ます。
 「そんなこと云つてくれるのは友ちやんだけや」
 感激する次郎に「みんな見てくれてはるよ」と友子が優しく続けた。
 今日の次郎は極楽帰りと友子の言葉のおかげで、いつも以上に機嫌が良く饒舌になっていた。
 「『日常が何よりも大切で愛しい』という言葉が好きやから、何かあったら兄を抱いてやる、ハグやね」
 「お兄さんは…?」と友子が恐る恐る聞くと、次郎は明るい声で「抱き返してくれるよ」と答えた。
 「今日は何かうれしいね」と二人で笑った。
 極楽気分でホツトコーヒー。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十六

◎二十六、能勢の妙見は波瀾万丈

 能勢電鉄妙見口駅からバスで約五分、徒歩で行くと吉川小学校前を通り、十五分で妙見山ケーブル黒川駅に着く。ケーブルカーとリフトを乗り継いで、標高六二ニメートルの妙見山頂に登ると能勢妙見堂(日蓮宗)がある。
 能勢町地黄に所属する関西の日蓮宗本拠真如寺に属する仏堂である。
 次郎が前を行く友子に声をかける。
 「長いリフトの下が花園になっていて、一人用の椅子に腰掛けて足を伸ばしていると、色とりどりの花に触ってしまうという、何とも贅沢な登山だなあ」
 友子もハイキング気分になり、「初めて来たけど、のんびりとしたいいところね。どんなお寺なのか早く知りたいわ」と答える。
 天正九年(一五八一年)、能勢の領主能勢頼次が戦乱に備えて為楽山城をこの地に築く。頼次はその後、本能寺の変(一五八二年)で明智光秀方についたため、その後豊臣秀吉に領地を没収された。
 頼次は三宅勘十郎と改名し、岡山県の妙性寺(日蓮宗)に隠れ、関ヶ原の戦い(一六〇〇年)や大坂の陣(一六一四二六一五年)で奮戦し、徳川家康から旧所領を与えられた。
 妙性寺滞在中に日蓮宗に帰依した頼次は、甲斐(山梨県)身延山から日乾上人を招いて、領内の真言宗寺院などをことごとく改宗させ、北辰妙見大菩薩を奉祀する能勢氏私有の仏堂として、妙見堂を開基した。明治十八年(一八八五年)に一般に公開された。
 友子が興味津々に聞く。
 「光秀の三日天下に、どんな経緯で参加したのか知りたいわ」
 次郎も同意してこう答える。
 「名前を変えて秀吉の手を逃れ、その後家康に旧領を与えられるまでの三十年間のドラマも知りたいね。しかも返り咲いただけに止まらず、能勢に日蓮宗の一大拠点をつくり、その中に私有の妙見堂をひらき、その後『能勢の妙見さん』として世に知られるまでの、波瀾万丈の歴史を、歴史小説として書きたいものだ」
友子が「もうあるんじゃないの?」と首を傾げると、次郎は「二番煎じか」と笑った。
 奥の院バス停横に、町立東中学校の石垣が見えるが、能勢頼次以来の能勢氏の居館跡である。バス通りから東中学校正門前の道を入っていくと、無漏山真如寺がある。
 頼次が建立した寺であるが、日蓮上人の分骨も行なわれ「関西の身延」と呼ばれるようになった。
 真如寺の梵鐘には「元応元(一三一九年)」の銘がある。大坂の陣の際に、金属供出により徴発され、夏の陣後、淀川に捨てられていたものを頼次が拾って持ち帰り、能勢の布留大明神に奉納したが、その後、神仏分離のため真如寺に移された。鐘には、真言陀羅尼を二十九首も漢字と梵字で記した珍しいものである。
 山の麓の清普寺には、初代能勢領次から代々の当主の墓が三方に並んでいる。
 下見の帰り道。友子は次郎の介護近況報告を聞くことがお約束になっている。
 「認知症のお兄さんはディサービスに元気に行っておられる?」
 「三年間無遅刻無欠席でがんばっているけど、三日に一度は行かないと言い出すんだ」
ため息混じりで次郎は答えた。
 「なんで…」と友子も一緒に困り顔。
 次郎は手を横に振って「でも、中身と意義を説明すると『いつものとこか』と安心して行ってくれる」と友子に教えた。
 それを聞いた友子は「昨日のことを忘れているのね」と、複雑な顔をする。
 帰り際、二人は穏やかな笑顔で「またね」と言ってお互いの道を歩いた。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十四

◎二十四、万福寺と鉄眼寺

 近世中国の寺院の姿が完全なまでに再現されている、異質なまでの雰囲気に包まれた万福寺は、京阪宇治線で行くことができる。
 総門と三門の屋根は共に複雑な構成美と觥や宝珠で飾られて、巨大な柱はどっしりとした礎盤で支えられている。渡り廊下も様々な額や文様が目に付く。
 天王殿本尊の布袋和尚のでっぷりとした体とたくましい顔。
 さらに両側に居並ぶ十八羅漢像の怪奇な風貌。生命力に満ちあふれるとも云うべき仏像の数々。
 万福寺は中国の禅僧隠元を開祖に寛文元年(一六六一年)に開設され、全てが明代の伽藍配置になって造営されただけでなく、安置する諸像を造立するために、大陸から専門の仏工が招かれた。
 友子が話を始める。
 「造形面に限らず、万福寺では隠元の後をついだ木庵をはじめ、第十三世まで明の僧侶が住職を勤め、大陸の禅の伝統を守り続けたのね」
 次郎も続けて解説する。
 「江戸時代には宗教統制が厳しく、新しい一派をおこし寺院を建てることは難しかったはず。それを万福寺にあっては特に許されたのは、当時の幕府権力者たちが大陸文化に強い関心を持っていた結果ではないかと云われている。同時に、隠元を初めとする歴代の住職の厳しい宗風は、日本の近代仏教にいろいろな反省を促し、仏教界に清新な息吹を与えたとも云われている」
 次郎が少し話を変える。
 「それに関連した話を少しさせてもらうよ。大阪のミナミの繁華街、なんばに隣接したところに鉄眼寺という万福寺末のお寺がある。正しくは瑞竜寺と云うのだが、寛文十年(一六匕〇年)難波村の信者らが薬師堂に历福等から鉄眼和尚を請じてその再興をはかり瑞竜寺としたが、俗には鉄眼寺であった」
 次郎は小さく息継ぎをして、また話し始めた。
 「かねてから鉄眼は一切経という仏教に関する全集を出版することを一代の事業として取り組んでいた。広く各地を巡り、ようやく出版に着手せんとした矢先、大阪に大洪水が起こった。鉄眼は惨状を目のあたりにして、喜捨した人々に同意を得て、資金をことごとく救助の用にあてた。再び募金に着手して数年、宿願の果たすのも近いと喜んでいたところへ、大飢饉があ成、鉄眼は再び意を決してその資金をもって人々を救い、またもやー銭も残さなかった。二度集めて、二度救護に使ってしまった鉄眼だったが、かんぜんとして第三の募金に着手した。すると、意外にも鉄眼の深大なる慈悲心とあくまで初一念をひるがえさない熱心さが感動をよび、喜んで喜捨する人が続出。かくて、天和元年(一六八一年)、最初の募金開始から十八年後に一切経六千九百五十六巻の大出版がついに完成したんだ。これが世に鉄眼版と称されるもので、この版木は今も宇治の万福寺に重要文化財として保存され、現在でも大般若経や語録類が印刷されている。これが世に『鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり』と云われる所以なんだ」
 友子よ「ボランティア活動に勇気がわいてくる話ね」と感動していた。
 今日も下見の終わりには、次郎の兄の話になった。
 「お兄さんはお元気ですか」と友子が次郎に聞く。
 次郎は微笑んで「先日も、ディサービスで花見ドライブをしたとか」と答えた。
 友子は次郎の表情を見て安心した。
 「落ち着いているようで、よかったわ」
 「ありがとう、では、またね」